記録

26歳OLが真面目なことを書いたり書かなかったりやっぱり書いたりする

ちょっと前にできた目標とそれに関する最近のわたしの生き方


「強く、しなやかに生きる」

「愛される人になる」


大学卒業前後ぐらいで、ぼんやりとわたしの目標はこんなことかなぁと考えていました。


こうなるために紆余曲折ありながら今の会社を選んだのですが、最近ようやく「自分を持つべきところと折れても(嫌なことを飲み込んでも)いいところ」や「わたしが社会に存在することの意義」がわかってきました。



◆自分を持つべきところと折れても(嫌なことを呑み込んでも)いいところ


大学時代のわたしはとにかく個性を発揮することややりたいことをやることしか考えていませんでした。

嫌なことは嫌、やりたくないことはやらない、そう生きていたしそう生きるのが正義だとも思い込んでいました。

でも今になって振り返ると、なされるべきこともなさないままこんなことを言うのはただの子どものわがままだったのだなと思います。

*ただ、大学はある程度守られた環境ではあったのでこの生き方でも通っていました。

だから就活も変なプライドを持ってやっていました。

当時よく相談をしていた先生には「そこは折れてもいいんじゃないの?」と言われていた意味がようやくわかりました。

この時のわたしは折れてもいいところがよくわかっていなかったのです。


それで今のわたしがどうかと言うと、飲み込みづらいことがあっても、その先に目標があれば何の問題もなく飲み込めるようになりました。

多少葛藤することはあれど、一旦立ち止まって考えると「わたしはこんなところでとんがるべきではない、こんなことに時間を割くなんてもったいない、わたしにはわたしのなすべきことがある」と思えるようになりました。

これはもちろん会社で鍛えてもらった部分もありますし、最初に書いた2つの目標を本当に達成したいからということもあります。


人間、本当に成し遂げたいことがあれば、余裕で折れることができる!!


これはわたしにとっての革命です。



◆わたしが社会に存在することの意義


企業が社会に存在することの意義はよく議論され、語られるのに、なぜ個人が社会に存在することの意義は語られないのでしょうか?

企業の究極の目的はゴーイングコンサーンですが、人間は嫌でもゴーイングコンサーンする運命にあります。

わたしはどうせゴーイングコンサーンするのであれば、意味を持った人生を歩みたいです。


それで最近感じるわたしが社会に存在することの意味は、「わたしがわたしとして生きることの発信」です。

100%そうであるとは言わずとも、わたしは働くこともプライベートを過ごすことも楽しいです。

細々したことはあるとしても、人生において特に嫌なことや愚痴りたくなるようなことはなく、日々自分を良い方に更新して、自分が変わっていくことを楽しく思えています。

だから、かつてのわたしには信じられないような自分になっているし、信じられない行動もできるようになりました。

「わたしはなりたい自分になれる」、「わたしが望むことはわたしの手で叶えられる」ということを少しずつ実感しています。

本当に少しずつなので全然変わってないよ!と思われるかもしれないけれど、わたしは自分自身の変化に驚きや喜びを感じています。

だからこのあたりはあと何年か経ったら具体例も交えて世に発信していきたいです。


ただ、現時点で、「わたしがわたしとして生きることの発信」はいつかどこかで誰かのパワーになるのではないか?と思っています。

正解のない時代でなんとなくぼんやりと生きる人、深く物事を考えない人、諦めがちな人…

わたしの周りにもいるこんな人たちを変えたいわけではないですし、変えられるとも思っていません。

ですが、わたしはわたしが生きる世界を少しでも豊かに、そして幸せにしていきたいから、そのために自分ができること、自分らしい生き方を貫いていきたいです。





で、結局何が言いたかったかと言うと、もっともっと強くしなやかに生きたいし、愛される人になりたいのです!!!

わりとコスパ重視な生き方してるけどここに関しては貪欲に生きていきます。